寝ても覚めてもORIX

オリックスバファローズを応援です。いろいろと書きますが、ORIXが勝てば、日常生活も楽しいという単純人間のブログです。

【ORIX】あれから28年

1995年1月17日

成人の日に、神戸製鋼スティーラーズが7年連続日本一。その翌々日早朝。
余韻に浸る暇もなかった神鋼の選手たちが不憫でした。
オリックスはまだリーグ2連覇。7連覇がいかにすごいか。


個人的なことですが

私は幸い倒壊の多い地域ではありませんでした。電話は通じました。
ただ、当然ながら、電気、ガス、水道は止まりました。特に水道は長らく止まっていました。車はあってもガソリンがないので、実質的には使えず。


とはいえ当時はサラリーマン新人で、震災だから休みますともいかず、その日は長い距離を歩いて大阪にある会社に出社しました。三宮にでて、状況がわかり、電車が止まって陸の孤島。徒歩しか、手段はなく、会社に出たのは昼すぎだったか。あまり覚えていません。


震災当日は大阪の会社の寮に泊まって、翌日は東京に出張しました。
新幹線は京都からだったと記憶しています。
東京に着くと、山手線で、女子高生が「震災ニュースばっかで、笑っていいともが中止になって最悪〜」と友達と話していて、愕然としました。仕事関係の東京の人も気は遣ってくれるものの、あまり深刻には思われていなかったような。(その夏にアメリカに行った際に、見知らぬアメリカ人に震災のことを気遣われた方が印象に残っています。)


東京では登山用のガスコンロなどをたくさん買い求めて、新幹線で新大阪まで帰りました。帰りの新幹線の隣の席の方が、同世代の女性の方で、「新聞を読まれますか」とおたずねしたら、読みますと。それだけ覚えています。新大阪からは、西宮くらいまで電車でその後は歩いて帰りました。周囲で山用具が重宝されました。


その後は、三田経由で三宮近くまで帰れるようになりましたが、しばらく大阪に宿泊して出勤していました。今なら考えられないですね。


※余談ながら、2011年の東日本大地震の時は東京にいました。帰宅難民に溢れる東京の町に、阪神を思い出しました。


ラグビー王者から野球へ

野球の応援の方は当時は、それどころではありませんでした。


震災時は自主トレ期間。オリックスの選手の多くは、神戸にいたようです。
イチローもしばらく揺れているような感覚に襲われたと語っています。


余裕ができてきた春くらいからは、オリックスの試合が勇気づけてくれました。
あの年は7月にはマジック点灯ですから、ものすごい強さです。対戦相手も少し遠慮された部分があったのかもしれません。対戦相手であるロッテの小宮山投手が「オリックスに勝たせたい」とインタビューで語っていて、当時はそんなことを言う時代でもなく、驚いた記憶もあります。


とはいえ、なかなかグリーンスタジアムまで行けません。けれども、まだ電車も復旧していない神戸で野球をしてくれていることがうれしかったです。
仰木監督が率いるオリックス。田口コーチが毎年取材されていますが、田口さんやイチローさんらの若手は神戸の希望でした。